日々の雑文

アラフォー独身OLが生き方に惑ってるブログです。

彼から連絡が来ない時

いい歳して、恋してるだとか好きだとか書くのは憚られるのだが、恋は私を取り巻く何もかもに、生きる理由に、見るもの全てに多大なる影響をあたえる。こうして綴る言葉にさえ。

 

今、恋のことを語るつもりはないけれど、確実に言えること。

それは、恋がうまくいっていない時ほど難しく物事を考えてしまうということ。

 

過去の出来事や言動を回想して良かった悪かったと判定したり、ありがとうだとか急に何かに感謝してみたり、妙な決意表明をさせたりして、自分自身に何かしらの決断を迫らせている気がする。

 

このことは、「私がこれだけの決断をしているのだから、相手にも何らかの覚悟をしてほしい」という、心の中で勝手に思う脅迫。もちろん口に出して伝えたりしないから、相手はそんなこと露知らず。彼の忙しい時期が終わって気持ちに余裕が出れば、呑気にメッセージアプリで話しかけてくるというのにね。

私はというと、自分自身の内なる葛藤を経て疲れ果て、イライラ。

「あんなにも悩んだのに、悩んだだけの報いがない」と思ってしまう。

相手はそんなこと意に介さず。

 

だから間違っても、彼が数日ぶりに呑気に話しかけてきた途端に、文句言ったりしてはいけないのである。

悩んでいたのは私一人だけだから。

 

しかし、一説によると、ここできちんと自分が寂しかったことだとかを表明し、ちょっとプンスカした様子を見せておかないと、

「あ、コイツ俺にあんまり興味ないんだ」と思われることもあるとかないとか。

 

どっちが正解なんでしょう。

永遠の謎。

学びとは、自分の中の何かと何かが結ばれること

私のちょっと変わった仕事に「外国人留学生と行く介護の仕事を学ぶツアー」がある。県が主催するツアーに縁あって同行している。前任の先輩から引き継いだ仕事で、一日拘束される上期間中複数回あるため私を苦しめる案件の一つとなっている。しかし、今期はコロナ騒動により3月に予定されていた残りのツアーは全て中止となった。

 

一日がっつり時間を取られるが、行ったら行ったで案外楽しめる仕事でもある。ベトナム、中国、ネパール、インドネシア、インド、スリランカ、タイ、ミャンマー、フィリピンなどから日本語を学びに来た若者達と一日過ごす。たどたどしい日本語で何も知らない子供のように可愛らしく見えてしまうけど、遠い異国に飛び込む勇気と知性を持った優秀な若者達なのだ。(と、思う。)

 

彼らがなぜ日本にやって来たか、何がしたいかなんて実のところわからない。ツアーに参加した理由も知らない。生活も価値観も全然違うから、日本の感覚では計り知れないところも大いにある。それでも、若者であることは万国共通。彼らは素直で感化されやすく、好奇心にあふれた眼差しを持っている。お国柄が随所に見え隠れしながらも、可愛らしいことに変わりはない。

 

そのツアー後に行われるアンケートを集計した。このツアーの目的は、人手不足の介護職に少しでも人を増やすことである。介護職は日本の在留資格を得ることができるため、日本で働きたいならこんな方法もあるよ、という行政からの一つの提案である。アンケート内容は「介護の仕事についてどう思いましたか?」とか「日本語学校卒業後の進路は?」というごく普通のもの。最後に、ツアーの感想を自由に書いてもらう。

 

「楽しかった」「おもしろかった」というシンプル回答が多い。あまり複雑な日本語を表現できないのだから致し方ない。「介護に興味を持った」という人もいれば、「他にやりたいことがあるから興味はない」など、各々の感想が並ぶ。とにもかくにも、日本語で書いてあることに感心しながら目を通す。

 

私は一つのアンケートの回答が目に留まった。ベトナム出身25歳女性の感想である。漢字を使い、文章で書かれている。日本の小学校高学年くらいの子が書いたものだと言われても気づかないレベルである。

 

彼女の感想はこうである。

「とてもよかった体験だと思います。それに、日本の介護福祉の努力おかげで日本の平均年齢が高いのが分かりました。」(原文ママ

 

私はハッとした。

 

楽しい・おもしろい・やってみたい・興味ない等、その場限りの感情を述べるのとは違う。

彼女が持つ日本の知識と、ツアーで目撃したものが繋がったのだ。もしも彼女に「日本が長寿国である」という知識がなかったら、そのような感想は出てこないのである。「学び」とは、自分の中にある何らかの知識と、自分が見知った事象がリンクすることなのだと、私の中で繋がった。

 

学びとは、何かと何かが結ばれること。

 

新たに知ること、体験することであっても、自分とその知や体感を脳や体とリンクさせること。その他の知や体感と繋がってよりリアルに感じられること。

 

何をするにも「結ぼう」という気持ちがあることで、より意義のある体験や知識となるのだと気付かされた。

 

写真はツアーのひとコマ。漢字を使いこなす留学生たち。素晴らしいなぁ。 

しかし、写真が横になるのはなぜなの…

 

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父と宇部興産道路と私

先日、両親のお墓参りをした。
お墓までは自宅から約750キロ離れている。父の実家近くの雑木林の中にある。軽く山を分け入らなければいけない。正直、めんどくさい。

お墓参りには数年に一回、私一人で車で行く。決めてるわけじゃないけど、父の他界後それ以外の方法で行ったことは多分ない。20代の頃は休憩2回、8時間という速さで行ってたけど、近年は仮眠しないとムリ。遠い。

なぜ車で行くのかと多くの人に問われるのが、これまためんどくさい。理由なんかない。両親がいた頃から車で行くのが通例だったから。ただそれだけ。

実は今回はお墓は中継地点に過ぎず、目的地はその先さらに350キロほど離れた場所にあったため、超速でお墓参りして先を急いだ。その旅のことは書くかわかんないけど、またいつか。

長い長いドライブは、過去の思い出をあれこれと呼び起こさせる。
その旅の途中に、私にとって現世と黄泉の国の境目みたいな場所が存在する。
それは、宇部興産専用道路と中国自動車道が交差するポイントである。

「ほら、宇部興産道路だよ」
そこを通る度に、父は必ず言った。人感センサーでも埋め込まれているのかと思うくらい毎回。子供にとっては一体何がすごいのかわからないことを父はよく言い伝えたものだったが、郷土の誇りであったのだろう。父がいなくてもセンサーを発動するほど私にも染み付いて、その凄さも今ではわかる。
あぁ、日本一長い私道、宇部興産道路だ。

父が唯一センサーを発動しなかった時がある。父との最後のロングドライブでのことだ。弱りつつある父を見て覚悟を決めた私は、一人でタイヤにチェーンを装着する練習をした。その年末は雪が降っていた。酸素ボンベを転がしながら5時間新幹線に押し込まれるくらいなら、車の方が気楽だった。私は父に最期の故郷を見せなければいけなかった。最期に祖母に会わせなければいけなかった。父はどっちでもいいと言ったけど、私は絶対にそうしなければいけないという使命感に燃えた。

行きはまだ元気だった父だが、帰りは少し疲れた様子だった。普段は私の運転に口うるさいのに、黙って助手席に座っていた。故郷の景色を目に焼き付けていたのかもしれない。雪が降り、道路が白んでいた。チェーンを着けたくない私は先を急いだ。

「ねえ、宇部興産だよ」
父は眠っていた。

その2ヶ月後に父は亡くなった。やはりあそこは、この世とあの世の境目だったのかもしれないと、17年経って思う。

運転しながら、母が亡くなってから34年であることに気づく。あぁ、今年は節目みたいな年だから呼ばれたのかもなぁと思った。ちゃんとお墓を掃除すれば良かったなとちょっと後悔した。

思えば、父と私の親子関係が始まったのは、母が亡くなった時からだった。それまでの父は、同じ家に住んでいてもほとんど顔を合わせることがなく、たまに家にいる時だけ気まぐれに私を可愛がったり怒ったりする、私のペースを乱してくる近所のおじさんみたいな人だった。母の死を境に父しか頼る人がいなくなった子供の私は、父とどう接するべきなのか戸惑ったものである。17年間、私にとって父は、厳格な父であり、大らかな母のようでもあり、バカばっかりする弟のようでもあり、全然構ってくれないのに急に電話をかけてくる恋人のようでもあり、好きなことや感動したことを共有できる友人の一人でもあった。
父と過ごした17年は怒られたり喧嘩することもあったけど総じて楽しく、父がいなかった17年は、とんでもない出来事も多々ありながら最高の友に報告し意見を乞うことができないのが、だいぶつまらなかったように思う。

しかし、父がいないことをそこまで悲しく思わないのは、長期出張で不在がちだったことと、父と過ごした時間が濃すぎてお腹いっぱいだからだと思う。
それよりも母のいなかった34年、こんなにも長い間ずっと人を恋しく思えることに気が遠くなりそうだ。そのことを今、父に話してみたい。
いや、それ以外にもっと父に話したいことがたくさんある。もっと楽しい話がしたい。父がいつも、そうしてくれたように。


写真は、宇部興産道路から450キロ離れた場所に生息する野生の馬と、その中間の高千穂峡辺りの伝統芸能の神楽。本文とはあんまり関係ないけど。

 
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コロナの影響は多分リーマン超えるでしょう

先週1週間、少々浮世離れした生活を送っていた。それについては後日書くとして、本日より現世復帰。通常出勤。

 

新型コロナウイルスの影響により、私が身を置いている広告業界の打撃が半端ない。イベント関係は軒並み中止。新規アポも無期限順延。この影響は広告業界だけではないと思うが、これはリーマンや震災の比ではないと危機を肌で感じる。しばらく現世から離れていたせいで余計に思う。数週間後にはおそらく倒産企業続出するでしょう。

 

そんな折にも関わらず、なんだか我が社は呑気なもので、月曜の朝から社員を集めて業務フローに関する通達をしている。詳しく書くとバレちゃうから書かないけど(身バレしても堂々としてる!って前に書いたくせにw)、コロナの話ゼロ。出張しまくり新幹線乗りまくりの上司、ノーマスクで檄を飛ばす。

・・・大丈夫なんでしょうか。

 

感染への危機感はともかく、コロナショックによる影響について、社内で誰も何も言及していないことに驚く。危機感なさすぎでは? この会社はリーマンの時どうやり過ごしたんだろうか…

いや、私の休暇中に何らかの策が練られ、今も真剣に審議中であると信じたい。。。

 

とはいえ、自分にも策があるわけでもなく。坦々とやれることを、やるべきことを行うしかないのだろうなぁ。。。

 

で、いいのだろうか?

いいわけないと思うので、もっとよく考えたい。

ブログの在り方と疑問点(だからってそれに合わせるわけではないが)

自分用のブログを書いたことはほとんどないため、いろいろな方のブログを拝見して、気づいたことを書いてみたいと思う。ついでにそこから学んだこともちょっと導入しつつ。

見出しを付けるのが必須

ブログって遥か昔は日記的な感覚だった。それが正しい使い方ってわけではもちろんなくて、テキストや画像がかける、それを世界中で閲覧することができる、さて何に利用しようか、というのがインターネット黎明期だったのだと思う。最も、ブログが登場したのは黎明期ではないと思うが。

その昔、メールを送る場合は25文字程度で改行しよう、みたいな作法が存在していたけど、当然今もそう言った作法は存在しており、加えて多様化している。多様化ゆえに、あまり定番の作法は際立って聞かれないように思う。

はてなブロガーさん達のブログを徘徊してみたところ、見出しを活用していないのは私ともう1名様くらいだった。目次までついている。すばらしい。読みやすい。長い文章も見出しやボールド掛けてるところに目を通して、なんとなく読了した気になれちゃうしね。

それにしたって、見出しを付けるというのはある程度順序立てて書いてないと付けられない。プロでもないのに(というか、プロなのかセミプロなのかアマチュアなのかの実態は知らない)、みんな真剣にブログを書いておられるのだなと感心した。

見出しがあって、文章がある。プロっぽい構成をされている方が多い。

改行しまくりのポエム風ブログは、アメブロとかが多いのかな…。そういうブロガー生息域の分布図なんかもありそうだ。

1テーマ1投稿なんだろうけど、1テーマを細かくして細切れにするのではなく、大きめの1テーマにして1記事内で網羅できてる方が読者のストレスは少ないもんね…。これはやはり「まとめサイト」の影響なんだろうか。

みんなよくできてるな〜、と、一応プロで食ってるライターのくせに思う。 

 

 主題が明確

前の項と重複してるけど、みんなブレずに一貫したテーマで文章を書いてることにリスペクトが止まらない。ほんとすごい。余計な小話を挟まない。余計な前置きをしない。きちんと順序立てて、興味を引くテクニックもある。読者の気持ちになって書かれてる。私なんぞ「それでプロとか言ってんじゃねー」って石投げられそうでコワイです。。。

とはいえ、ブログというものがそこまでのツールに進化したんだなぁと、10年以上インターネットに付かず離れず携わった者としては思うわけで。人よりちょっと上手くできてればバズっちゃう時代は過ぎ去ったわけで。

自分が提供できる話題やコンテンツを明示する技がどんどん体系化してるんだなぁ…。みんな職人さんだ…

 

みんな何目指してるの?

そんなこんなで、この疑問がわいてくる。やはりみなさんアフィリエイターなんでしょうか。あとはWEBライターと呼ばれるものを目指してたりもするのかな。

オーダーを受けて書くこともあれば、自分発信のコンテンツを売ったり、そこから仕事に繋げたりしてるんだろうな。そう考えると、ライターと言ってもいろいろ棲み分けはあるものだ。

SEOとかWEB特有のあれこれ踏まえたライティングには、私は対応していない。その要素もメニューとして取り入れていった方がいいのかなぁ。

 

うーむ。

何はともあれ、マイペースに書いていきたい。

 

一応プロのライター(会社員だけど)として思うのは、「売れる文章が書ける」というのはライターの絶対条件ではないということ。オーダーを受けて書く文章は、納得を求められることの方が多いから。上手でも下手でも、伝わろうが伝わらなかろうが(いや、上手で伝わった方がいいんだけど)、クライアントが納得し満足することが何よりの条件だと、やっぱり広告畑を歩んで広告業界で生きてるから、思うのかもしれない。

広告屋なら売れる方がいいんじゃない?と思われそうだけど、その話はまたいつか。

 

行き着く先は、ただ文章を書くことな気がする。

私は広告業界にかれこれ13年くらい身を置いている。「くらい」と書いたのはその前の仕事が広告と言っていいのかがわからないからだが、さらにその前は全く違うことをしていた。そんな過去のことはまあどうだっていい。

 

どうだっていいと言いながらさらにその前を遡ると、私はずっと文章を書く仕事に就きたいと思っていた。私の大学時代は就職氷河期真っ只中。将来の夢を無邪気に語ることができない冷たい時代だったと、振り返ってみて思う。昨今の大学生が無邪気に夢を語っているのを見るとキラキラと眩しい。猫も杓子も公務員を目指した私たちの世代にそんなこと言ったら、大人はもちろんたとえ同級生相手だったとしても、「はぁ?」と薄ら笑いを浮かべられたに違いない。

「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン」は、実は当時の世相を色濃く反映した名言だったと今更痛感する。でも別に、当時思っていたことをそのまま言ったって何ら問題なかったと一方では思っている。当時を憂いて今を批判したり、社会とか政治に文句を言いたいわけではない。いつの世であっても、薄ら笑いを浮かべているような奴らは放っておけばいいだけなのだ。

 

紆余曲折を経て、私は広告営業をすることになる。「文を書く」という行為に近いような気がしたことと、「営業=売る」ことができれば世界中いつどこに居ても食べていけるんじゃないかと考えて選んだ。「文を書く」についてはなかなかビンゴだった。しかし「営業=売る」については、結構な精神修行を強いられることとなった。既にあるもの、誰もがイメージできるものを売る行為とは全く違い、「ないもの」を売るのは至難の技なのだ。

 

営業時代のつまらない苦労話はまたいつかどこかで書くとして、広告の仕事というのは、外部の人からするとちょっとわかりにくいものである。広告の仕事をしているというと、「チラシとか作ってるの?」と聞かれる。もちろんチラシを作ることもある。しかし、広告業に従事する人でチラシを作りますと申告するのは、折り込みを専門にしている会社の人だけだと思う。広告というのは実に幅が広い。なんていうか、一般の人には気付かないところから「広告」は始まっているし、見聞きして興味を持つものは広告屋が仕掛けたことであるケースも多々ある。気付かないところから生活に入り込んでいるのが広告なのである。

 

そういうわけで広告屋の仕事というのは、あらゆる繋がりとか流れに敏感にならざるを得ない。風が吹けば桶屋が儲かるを予測し、他者に説得していく仕事である。信頼度が上がると説得不要となる。「風が吹くとね、桶屋儲かってるでしょ?」と言われると、「たしかにそんな気もする」と思わせられるようになるのである。

 

私自身の話に戻りますと、そういった物事の繋がりや相関関係を元に分析し予測を立てることは嫌いではないのだが、決して得意とは言い難く。また、途中途中で余計なことを入れ込んでしまうものだから、なんだか支離滅裂となってしまう。人に伝える段階ではキレイに削ぎ落とされ無駄のないものを提案するのだが、実はそこに至るまでは、浜松駅から静岡駅に行くのに、豊橋飯田線に乗り換え長野をぐるっと経由して富士辺りまで出てきて東海道本線に乗って静岡駅に到着したくらいの大回りをしているのである。時には、本来辿り着かせたかった静岡駅ではなく甲府あたりに行ってしまって、さてどうしたものかと途方に暮れることもある。都会で例えると、東京駅から神田駅に行くのに品川方面の山手線に乗るようなもので、それでも神田に着ければいいけれど、新宿あたりで何を思ったか中央線に乗り換えてしまい、甲府に辿り着くようなものである。

 

それが広告屋の仕事なのだが、実はそれにほとほと疲れてしまったのが昨今の私である。

ターゲットは誰、伝えたいことは何。ただこれだけに専念したいのである。

「大人の事情」という都合のいい言葉により、わざわざ愛知県や長野県に入りたくないのである。東海道本線の上りに乗ればいいのである。あわよくば新幹線で行きたいのである。

 

ディレクターという立場はスムーズに事を進めることが役割ではあるのだが、いろんな事情で大回りしなければいけないことが多い。

最終的にやりたいことは、やっぱり自分で書くことなのだと気づき始めた今日この頃。広告の仕事は面倒ながらも楽しいし、自分が文を書かせてもらえる機会はほぼ広告絡みである。いろいろ業務を遂行する中でも、書く行為が一番楽しい。大回りをすることはあっても、それを素直に楽しめる。

 

目的に沿った文章を書く。納品物はテキスト。

私は、「書く」をメインにした仕事に今後はシフトしていきたいのです。

 

 

結局仕事が好きな人のただの日記

私の仕事は、忙しさのピークがだいたい2〜3ヶ月間続き、この間に依頼される無期限の仕事は、本当に2〜3ヶ月待ちとなってしまう。「売れっ子作家さんですか?」と依頼主さえ揶揄してくるけど、待ち時間については事実だから仕方ない。しかし、1週間以内に上げてくれと言われれば強引にねじ込まざるを得ない。そういうねじ込まれ案件がたくさんあるから、無期限案件はどんどん後ろ倒しとなるというカラクリである。

 

だからって常にひっきりなしに仕事があるわけでもなく、暇になった現在は閑古鳥が鳴いている。フリーランスだったら大ピンチである。会社員で良かったと心底思う。依頼されればソッコーで着手できるから、すぐできる。とってもお買い得。だけど、「じゃ、いっちょ買いだめ(作りだめ)しとくかな」という種類のものでもないのだが。

 

そんなわけで本日は、無期限自主プレ案件にようやく手をつけられ、解放された。この件は昨年の11月に自社の営業マンから持ちかけられたものである。人は「できる時にやってくれればいいよ」と笑顔を見せながらも、本気でいつでもいいとは思っていない。3週間くらい経過した時点でイライラを大胆にも露わにしてくる。「ねぇ、一体いつになったらできるの?」と問い詰める。お客様が待っているからと100人中一人いるかいないかの意見を誇張して罪悪感を植え付けてくるタイプ、こんなに待たせるなんて社会人としてどうかしてるぜと常識という伝家の宝刀を振りかざしてくるタイプと、怒り表現は様々である。その怒りを横目で背中で受け止めながら、ごめんよ〜 私には今すべき戦いが目の前にゴロゴロあるのだよ〜 許して〜と、内心ずっと苦しく思っていた。無言のプレッシャーは私の創作意欲を削ぐ。負のスパイラルが始まってしまう。

 

しかし、どれだけ営業担当が怒りに打ち震えたところで売り上がる見込みが低い無期限自主プレ案件である以上、睡眠時間を削り身体に鞭打ってまで私が身を粉にする必要はない。余計にその案件から私の気分が遠のく。こんな時は「つらいよね、ごめんね。キミしか頼める人いないんだ」という同調泣き落としタイプの方がよっぽどやり手の営業マンと言える。さらには、「頼む〜。ふなきぃ〜」と、いつかのスキージャンプみたいに言ってくれると、そのひたむきさに日本中いや全私がほだされなくもない。しかし、この言ったか言わないか定かではない原田選手の名台詞は、現在35歳以上じゃないと通じないんじゃないかと思う。

 

そんなこんなでようやくできた無期限自主プレ企画。なかなか良い出来。これは是非とも実現させたい。営業担当もこれまでの長く静かな怒りを忘れて盛り上がってくれたと信じたい。メガネの奥の小さな瞳は笑っていなかったかもしれないが。

詳細は言えない。久々に自由な提案企画を作り、仕事の楽しさを味わった喜びで書いてしまった、なんとも中身も毒もないブログだ。

実現した暁にはこのブログでも紹介したい。これを作るとしたら恐らく半年くらいかかる気がする。その頃、そんなブログになってるんだろうか。その前に、会社に所属したままなのだろうか。明日が見えない。

 

受注してくれ〜 ふなきぃぃ