ほんのりやわらか稿

静岡県在住ひとりもん会社員ライター。日常と回想。ヨガとギターと恋。時々、父。わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ。

『別の人の彼女になったよ』に見る男女差

夕方ラジオを聴いていたら『別の人の彼女になったよ』という曲が流れた。

このタイトルは以前耳にしたことがあり、随分な当てつけだなぁと思った記憶がある。

まぁ、、このフレーズを元カレに発信するかどうかによって印象は異なるとは思う。

 

 ・元カレに言っちゃう→なんというかまってちゃん!

 ・自分の心に留めておく→未練たっぷり

 

だと思う。私の場合は、脳内で思うことはあっても、相手に発信することはないであろう。

 

それはまあいいとして、

ひとしきりこの歌が流れた後で、ラジオパーソナリティの男性が放った一言。

 

「今の彼氏のことをわざわざ言われて、最初からイライラしました」

 

 お、おう…、そうですか…。

タイトルのみでは自分も似たようなことを思いつつも、歌を聴いた後ではせつない女心を感じとっていた私は、この男性の一言に軽くずっこけた。

 

すると、一緒に番組を進行している女性パーソナリティから盛大なダメ出しが入った。

 

「女心をぜんっぜんわかってない!!!」

 

そこからその女性による解説へと突入した。

 

ご興味のある方は歌詞を調べてみてくださると良いかと思います。

 

先に「せつない女心」と書いたのですが、「せつない」と一言で片付けるのも少し複雑な感じなのです。

 

「別の人の彼女になったよ」と言いつつ、別の人の彼女でいることはだいぶ苦痛みたいなのです。元カレと比べ過ぎているせい…のような展開ではあるのですが、さてはて、元カレの存在がなかったとしても、なんとなく居心地が悪そうな今カレとの関係。

で、「別の人の彼女になったから、あなたも別の人の彼氏になってね」なんて言っているのですが、これってなんとも辛辣なメッセージだと思うんです。

元カノに言われたら傷つくし、なんだかもやもやとしたしこりを残す。そのため、言われた方はそのメッセージの意図を正確に汲み取れないと思われます。

 

考えられることは二つ。

・あなたも別の人の彼氏になることによって、私を思い出して。そして後悔すればいい。

・(別の人の彼氏になってねと言いつつ)別の人の彼氏にならないでね

と、いうような女心でしょうか。。。

 

うーん、気持ちはわかるけど、もしもこれを元カレに言った場合、かなりめんどくさい女認定されてしまう気がする。

 

そういう気持ちはあるけど、心に留めていることを歌詞にした、ってところかなぁ。

やっぱ現実問題、これは言えない。言われたくないと思うし。。。

どんな事情でお別れしたのかはわからないけど、言うべきじゃない。

 

なぜならこの歌詞、圧倒的に今カレがかわいそう(;_;)

 

別の人の彼女になったこと自体が当てつけ。。。

結果、今カレも元カレも、自分自身も傷つけていて、誰一人として幸せになれないなと思いました。

 

 

で、この歌詞を書いているのはどうも男性のようなのですよね…

すっごいな。

メンヘラさんとお付き合いされてたのかな…

 

手のひらのほくろ

自分の手のひらを何気なく眺めていたら、小さなほくろを発見した。

汚れかと思ってゴシゴシこすってみたけど、落ちない。多分ほくろだ。

こんなところにほくろなどなかったので、最近できたものと思われる。

 

手のひらのほくろはあまり良くないと以前どこかで読んだ。

なぜそんなことを調べたかというと、その時付き合っていた人の手相を見た際、その人の手のひらにほくろがあったからだ。その人のほくろの位置は癇癪持ち。当たってた。

ついでに言うとその人は手相でも疑り深い、カッとなりやすいなど出ていた。

私は十年ほど前、手相の講座を受けたことがあり、一時期いろいろな方に手相を見せてもらっていた。

ただ、手相が当たってるとかはその他の占いと同様に気の持ちようで、当たっている気もするし、何とでも当てはまる気もするし、上記のように何かの答え合わせであったり、安心材料のような気もする。

ちなみに私の手相は、手相鑑定をする人に見せると「良い手相ですね〜」とよく感心される。何が良いかというと、性格が良いらしい。感受性豊かで優しい。良妻賢母。

「良いお母さんになりますよ」とよく言われたものだが、残念無念、妻でもなければ母でもない。良妻賢母の相だからって良妻賢母になれるわけではないのだ。

 

私の手のひらのほくろは、感情線の上、人差し指と中指の間あたりに位置している。私の感情線は人差し指と中指の間にぐいっと食い込んでいます。

 

この場所のほくろの意味は、嫉妬深いのだそう。

そうかー。そうなのか。

そう言われてみればそんな気もするけど、言うほどでもない気もする。

いかんせん定量化できない情報のため、どのくらいの深さが適切なのかがわからない。

 

嫉妬深さゆえなのかはわからないが、恋愛運はあまり良くないということだけは深く深く頷ける。本人は首がもげそうなほどに頷いているが、それだって何とでも言える気がする。

何度恋愛しても上手くいかないことが運が良くないとも言えるけど、何度も恋愛できるのは恋愛運が良いとも言えませんかね?

恋愛のゴールが結婚だとしたら、何度も恋愛しない方が幸せだし、一人の人とずっと長く恋愛できたら最高なんだろうけど、それもつまらないように思ってしまう。・・・そうそれが、恋愛運のない女。価値観そのものが恋愛運がないとも言えるが、いろいろな恋愛ができたのはそれはそれで楽しいわけで。まあ、結果オーライです。

 

私はほくろが少なめの体なのですが、顔面に一つほくろがあります。

顔面にあるにも関わらず、このほくろの存在に気付いた人は二人しかいない。

一人は高校時代からの友人女子。もう一人は今の会社の同僚男子。

「なんかついてるよ」って口元を指す。

ちょうど右側の口角に汚れのようについているのである。

目立たない。というか、真顔でないと見えにくい。喋ったり笑ったりしているとなかなか見えないため気付かれにくい。

これまでも気付いた人はいるかもしれないが、汚れだと思われている可能性大。

 

この口元のほくろの意味は、一言多い。

これはね、当たってます。恐ろしいほどに。

口は災いの元。長いこと戒めとして心に留めています。

 

下書き記事は心のもやもや

お久しぶりですって言っても、私のことなんて誰だかわからない。大量に押し寄せる情報の一つ。情報ですらない情報の一つ。

 

たまに思い出しては、読者登録させてもらっている方々のブログに目を通す。いろんな人の想いが溢れている。見知らぬ人のあたたかな部分にふいに触れたかのよう。一瞬のふれあいなのに、瞬時にその人の背景が伝わってくるようなことがある。電車や車の車窓から、どんどん後ろに吹き飛ばされていく景色みたいに。

 

電車や新幹線に乗って外を眺めていると、それらの通り過ぎていくものが愛おしく思える。車の時は助手席か後部座席に乗った時しか体験できなくて、近年は車でのその体験があまりない。誰かの車に乗っても、会話に集中しなきゃいけないことがほとんどだから。ぼんやりと窓の外を眺めていられるのは、三人以上の複数人で乗って運転をしない時と、家族と乗っている時だけだ。無言の時間に外ばかり眺める。見知らぬ家や街がどんどん遠ざかっていく。彼らはずっとそこに留まっているのに、私は一体どこまで行くんだろう、とよく想いを馳せていたように思う。そして、留まっている人々の暮らしを想像したものだった。

 

最近更新してなかったけど、時々記事を書こうとしていた。下書きのままになっている記事がいくつかある。一度途切れると書けなくなる。気が向いたら編集してアップする。私はなかなか気が向かない。意外に重たい内容を書いたことが運の尽きだ。

もっと軽い気持ちで吐き出せる方がいい。一生懸命書こうとすると筆が止まる。

 

ずっと心に留まっている、アンカーのような事を書き出そうとすると特にそうなる。それらは軽い気持ちでは書けず、書いている間に新しい事に気付いてしまったりする。いつまでも終わりがない。だからこそ心の底によどんでいる。多分それらは、吹き飛ばされていく景色の方なんだ。動き続ける自分と共にいつもそばにあるものではない。

 

心の中に点在する重たいよどみに向き合うのは腰が重い。下書きになった記事はまた少しずつ向き合いたい。重たくても大事なものだから。よどみを紐解くと、少しラクになる。車窓で後ろに吹き飛んでいく景色のように、何かから解放される。

 

三浦春馬さんによせて —私たちが悲しい理由—

最近の若いタレントのことは知らない。ついでに言うと、流行ってるお笑い芸人のネタも知らない。私はテレビをほとんど観ない。

 

でも、三浦春馬は知ってる。熱狂的ファンではないけど、あの年代の俳優なら断トツで春馬推しだ。嫌味がなくて爽やかで。若い頃から落ち着いていて、何かを知り尽くしているような深みと安定感があった。浮ついた印象がないせいか寄り添ってくれる感じがして(すんごい妄想だが)、なんとなく同じ側にいる感じが好きだったんだと分析している。

いつも味方でいてくれるお兄ちゃんみたい。自分よりだいぶ年下だから変なんだけど、やんちゃで甘えん坊の弟って感じでもない。若いけど頼れる感じ。しかも、落ち着き払った偉そうな感じでもなく、しっかり同年代から若い世代へもアピールできるキャラクター。

ご多分に漏れず、私も三浦春馬の死に衝撃を受け、悲しんだ者の一人である。

 

連日、三浦春馬の死に関する様々な記事が溢れる。記事には皆のコメントが付く。ざっと見て、悪く書く者はほとんどいない。それほど品行方正に、正しく愛されていた人物なのだ。口にはせずとも、日本中が静かに悲しんでいる。

 

どうしてこんなにも皆等しく悲しいのか。順風満帆で将来有望に見えた青年の死。

・・・“順風満帆”も“将来有望”も、この世の皆で作った価値観だ。彼は皆の理想の一つであり、憧れの化身だ。彼は皆の注目を浴び、その一挙一動で周囲をうっとりと魅了し、時に多大な影響力も発揮しただろう。人は皆平等だとは言うけれど、そのような力はそう誰も持ち合わせない。様々な評によると、彼はその力を悪用するタイプの人物ではなかったみたいだ。そんなところが上述の“お兄ちゃん感”かもしれない。もちろん彼自身の努力の賜物であろう。それにしたって、彼はこの世界に愛された人物だ。

 

憶測に過ぎないけれど、嫌われる要素がない。特別好きではなかったとしても、彼に爽やかな微笑みを向けられたら、どんな人も悪い気はしないのである。

彼という存在はこの世の模範のカタチの一つなのに、この世から去ってしまった。その終わりが病気や事故などによるものではないことも、悲しみを増大させる要因である。寄り添ってくれたはずのお兄ちゃんが、自分を置いて突然遠くへ行ってしまった。

皆、彼が背を向けた世界に取り残されてしまったのである。

彼がたった一人で死の道を選び、別れを告げた世界に、私たちは今日も生きている。

そのことが私たちに深い悲しみをもたらすのではないだろうか。

 

数々の称賛は彼を救うことができなかった。大勢の喝采も彼をこの世に留まらせる理由にはならなかった。誰もが欲しがる名声は、さほどの充実をもたらすものではないのかもしれないという虚無がよぎる。

ほとんどの人にとって三浦春馬は偶像だったが、同じ世界のどこかに生きている実在の人間であることが、何かしらの支えでもあった。それが、ずっと偶像の側面しか見せられていなかったのに、一瞬だけ生々しい人間の姿をさらした。自死という生身。そして本物の偶像と化した。

 

少しだけ、「鶴の恩返し」あるいは「鶴女房」に似ている気がした。

正体を知られたために去って行く女。いや、鶴。あの物語の余韻、皆の胸に去来するのは、「何も去ってしまわなくても・・・」という思いではないだろうか。ちょっとした出来心が、取り返しの付かない事態を招き、あっという間の展開に男と読者は取り残される。

鶴が去らずにそのまま暮らしたとして、男はその後鶴女を追い出しただろうか?

実はそれはわからない。姿は女だし、対外的にも女だし、機も織ってくれるし、男にとって何ら不都合はない気もする。でも鶴という事実は、何らかのわだかまりを生むのである。それがわかっているから鶴は去ったのではないだろうか。(「絶対に見るな」とか実はトラップのような気もするけど・・・。)とはいえ、今ここでそれを追求するつもりはない。何にもなぞらえる必要はないのだが、三浦春馬の死は何らかの物語のようにも思えてしまうのだ。

 

 

 「あの時は、本当にキツかったですね・・・」

 重く言葉を絞り出し、沈黙する春馬。

 「・・・よく戻ってきてくれましたね。みんなあなたを待ってたのよ」

 徹子が言うと、唇を少し噛みしめた後、吹っ切るように照れ笑いする春馬。

 「・・・はい」

 

という数ヶ月後の「徹子の部屋」あたりを妄想してみる。悪ふざけの過ぎた壮大なドッキリでもいい。

彼はテレビの世界の人だから、私にとってはそういう感覚だったりもする。テレビがないから多分観ないけど、YouTubeを漁ったりはすると思う。

でも、それは絶対に起きないということを知り、バカげた妄想をしたことを後悔する。偶像と生身をごっちゃにした自分を恥じる。彼は人間だ。もう還ってこない。もう、全てを爽やかに浄化させるあの笑顔は、 誰にも向けられることがない。

 

皆がそれぞれどう思っているかわからない。「どうして?」と言葉は浮かぶものの、私は彼の死の真相についてはそこまで知りたいと思っていない。誰が何を言っても、本人にしかわかりようがない。でも皆納得したい。その気持ちもわかるから、詮索する記事が飛び交うのもわかる。

私はただただ、この世界に戻ってきてほしい。そして、万が一の復活後も継続してこの世界に愛される彼を、視聴者として見続けたいだけだ。

傍にいたら話を聞いてあげられるかもしれない。でもきっと、「あぁ!カッコいい!」ってうっとり見惚れて終わりな気がする。きっと彼を救えない。もしも結末を知るタイムトラベラーであれば、『君の名は』よろしく絶対に救ってあげたいと思うけど。

 

現実は、何も起きない。ただ三浦春馬のいない世界が続くだけだ。そして彼の不在は世界に何の不都合ももたらさない。あんなにも彼に二物も三物も与えて優遇したっていうのに。世界側も薄情なものだ。

愛情を注がれて育ったはずなのに、突然蒸発してしまった家族の一人みたいなのだ。愛情を注がれていなかったなどの事実があれば少しでも納得するのかもしれない。この世の中には、そういう理由を付けてはいちいち納得しないと気が済まない輩もいる。私はそんな詮索したくない。なぜなら、愛情を注がれて一緒にこの世界に生きてたと見えていたから。もちろん近くにいたわけではない。真実は知らない。でも、一緒にこの世を生きる仲間のようだったのだと思う。一方的ではあるけど。

悲しい理由は、そんなところではないだろうか。

 

消えたのが誰であれ、失われた悲しみは、なかなか埋めることができない。去って行った人を案じてもどうすることもできない。もうこの世のものではないのだから。残された人間にできることはただ一つ。その人を忘れずに生きることだ。生きることを存分に謳歌できたら尚良い。

いろんな人が生きた足跡を、その息吹をなぞり、今日も私は生きている。

 

 

春馬くん、なんて素敵な名前。

苦しみや悲しみに脚を囚われることなどなく、どこまでも颯爽と駆けていけばいい。

 

 

------------------------ 

という文章を少し前に書いた。

ざっと読み返してみて、時の流れの残酷さや、人の忘却能力の高さを感じた。

 

生きている人間は毎日生きてその記憶を更新する。

止まったものは置き去りに。

 

改めて、生きていてほしかったなと思う次第。

 

ワルグチ

悪口。

それを本人が聞いたら傷ついてしまうであろうことは、

本人の知らないところでこっそりと語られる。

普通は。

 

その本人でなくても、それを聞いた第三者である受け手は、

内容によっては不快に思う。

耳を塞ぎたくなる言葉や憎悪が満ちていることもある。

悪口を発している人は案外気付けない。

 

悪口を発している人は、自分を正当化したくて仕方ないから。

悪口の対象者よりも、自分が優れていることを示したいから。

もはや「悪口」の認識もなかったりする。

 

私も言う。

私にとっては、「遭遇した出来事」で「困った人に手を焼いた話」でも、

受け手にとっては「悪口」かもしれない。

 

私は、言霊を気にするあまり

“前向きな言葉しか発することができない呪い”

にかかってしまっている人のことを好まないけど、

悪口によって言霊の悪影響を受ける事態も好まない。

 

気をつけよう。

 

 

 

それで、ここからまさかの「悪口」が始まる。

 

ここしばらく、

「自分の将来を憂いたところ、今この人と一緒にいることが良い選択かも知れない人」

と仲良くしていた。

「共通の知人達からの評判の良い人」だったので、

「第三者から見た時に悪く言われない人」だと、私は考えた。

 

だけど、少々居心地が悪かった。

その人の選ぶ言葉・・・特に、嫌悪を示す時の言動が苦手だった。

おそらくその人も、私が選ぶ言動に相容れないものを感じていたのではないだろうか。

 

ある日、決定的な食い違いが起きてしまい、それ以来連絡を取っていない。

その時のその人の言動も私を困惑させた。あちら側も困惑したのだろう。

もしも連絡が来たら何て言おうかとハラハラしていたけど、時間が経つにつれ、

その人と接触しないことで気楽で身軽になった自分に気付いた。

その人がいなくなったことで、自由になってしまったのだ。

自分で思っていたよりも、本当は苦しかったのだと気付いてしまった。

 

私が、その人の苦手な部分をもう少し詳細に書いたら、

独りよがりの悪口かもしれない。

私にとっては、私の精神を脅かす大変なことだったけど、

おそらくその人にとって、あるいは共通の知人にとって、

さらには第三者にとっては、悪口だったかもしれない。

 

だけど、そのことに向き合えなければ、私は違和感を抱えたまま

口をつぐんで苦しんでいたかもしれない。

 

悪い部分を突き詰めて、自分で思い返したり、

何らかの事情で誰かに伝えるために

言葉にして認識しておくことは、多分悪くない。

いけないのは、自分の正しさを認めさせるために殊更に強調すること。

 

気をつけよう。

それをつい、してしまうから。

 

自分の正しさを知ってほしい時にも、

細心の注意を払って、慎重に。

 

 

過ぎ去った全てを輝かせる魔法の言葉

その晩、彼は上機嫌だった。
ビジネス上で、とても有意義で夢のある話ができる人と出会ったようで、
とても興奮していて、いつもより饒舌だった。

彼と私は、この先永遠に交わらない軌道の上にいる。
ほんの一瞬交わったから、こうしてお互いを認め合い言葉を交わしているけど、
それぞれの行く先は全く異なる方向にある。行き着く先はわからないけど、それだけは明らかだ。
二つの軌道は離れつつある。
今はかろうじてまだ手の届く範囲にいる。

キラキラと希望に燃えている彼は、去りゆく星なのだ。
私は淋しさと愛おしい気持ちを抑えながら、言葉をひとつずつ丁寧になぞった。

                  • -

いつしか、話題は私の出身大学の話に。
共通の知り合いが私と同じ大学を出ていることを、彼は偶然知ったそうで、
彼は「あの人、頭いいんですね」と言った。

どういうわけか、彼は私のことを頭が良いと評価しており、
“同大学の出身者であれば同等の頭の良さであろう”という安易な理屈を発動させてきた。
学歴と頭の良さは別に比例しないんだって、時々言ってたのに。
暗に共通の知人のことを“頭が良さそうに見えない”と言っているようなものだ。


「あそこはなんの取り柄もないことの象徴みたいな大学だよ」
と、私は彼に教えた。

余談だが、
彼は、難関国立大学に受かったのに某私立大学に行き、
私は、仮面浪人の末に受かった大学に結局行かなかった。
それぞれ、若干の学歴ダウングレードをしている。


「東大京大じゃなきゃ、大学なんて行く意味ないですよ。
時間もお金もムダです」
と、彼は言った。


・・・どっちも行ってないから知らないけど、そうなのかもしれない。


「でも、楽しかったよ」
私は言った。


——本当は、そこまで大学生活を謳歌したとは言い難い。
就職氷河期真っ只中だった。でも、私は若かった。
どれだけふてくされていても、それだけで楽しかったのだと思う。


「じゃあ良かった」
彼は言った。

                  • -


私の亡き父は、事ある毎に私に聞いた。


友達とどこかに遊びに行ったり、
運動会とか文化祭とかの行事だったり、
日々の学校生活でさえ、

幼少期から成人後もなお、
変わり映えのしないことに対して、あえてその言葉を投入した。


「楽しかったか?」

一人親で私を少なからず案じていた父は、
私に問うたと言うより、そのように思考を強制したのだと思う。


「うん」

私は多少モヤモヤしながらも、力強い肯定はなくとも、
ふてくされ気味の日々を“楽しい”と言わざるを得なかった。


楽しければそれでいい。
“楽しい”は全てのマイナス要素を覆し包括する、柔軟にして不屈のポジティブシンキングである。


そして、“楽しい”は自分自身の内から出てくるものであるということも、
100%同意できないからこそ、気付くことができたのである。



父ともまた、永遠に交わらぬ軌道の上、私は一人取り残された。
何も、交わらない相手は彼一人だけではない。
誰もがそれぞれの軌道の上で果ての知れぬ漂流を続けているのだ。


この孤独な旅で何が起きようとも、
辿り着いたその先で「楽しかったよ」と言えれば、
もうそれだけで全てが輝くのである。



お気に入りお菓子|ローソン「明太バターラスク」

只今、書く仕事をしています。

が、一向に筆が進みません。。。
明日までに仕上げなければいけないのに。

現実逃避でいろいろな方のブログを読みあさっていました。
本当に、いろんな年齢、いろんな職業、いろんな状況、いろんな気持ちの人がいるんだなぁ、と。
違う人の生き様を垣間見る、小旅行のような気持ちで。


いざ帰還してPCに向かうも、書けなーい。

遅筆すぎるわ\(^o^)/

そんなわけで、お菓子を食べて再びの現実逃避・・・

ローソンの「明太バターラスク」

f:id:annnouim:20200713180805j:plain

最近これがお気に入りで、ローソンで見つけるとまとめ買いしてしまいます。

バターがしっかりしみこんで、明太子がピリリと利いています。
お酒のアテにも良さそうな、しっかりめのお味です。
堅すぎず、厚すぎず、サクサクとした食感。
次々と食べてしまいます!

・・・仕事もこの勢いで片付けられたらいいのに!!!

こういうどうでもいいことはサラサラ書けるのにな・・・

f:id:annnouim:20200713180434j:plain

ツメがきたないな・・・/(^o^)\