日々の雑文

アラフォー独身OLが生き方に惑ってるブログです。

読者登録した人のリストはどこで見ればいいのさ

私はこの「はてな」の機能の全容を解ってないし使いこなせてないんだけど、

一つだけどうしても使いこなしたいというか、知りたい機能がある。

 

それは、

自分が読者登録した人のリストを見たい ということ。

 

「購読リスト」があるけど、これじゃない。

これは、自分が読者登録している人がアップしたブログが時系列に並んでくる機能。

 

そうじゃなくて、最近更新しようがしてなかろうが、

その人のブログのホームに飛べる機能はないのか。

 

読者登録してくれてる人じゃなくて、

自分が登録した人のリストが見たいの。

 

その人が全く更新していなくても、その人のブログを見たいの。

読み返したいの。

 

その機能、ないのかな。

 

 

 

 

「大丈夫」の言葉は無責任なのか|簡単には受け入れられない助言

週末、とても嫌なことがあった。

私の数少ない「頼れるかもしれない身近な年長者」に嫌なことを言われた。

嫌なことというか、今の私は認めたくない、受け入れたくない、聞きたくない言葉だった。裏を返せば、本当は受け入れなければいけない言葉ということ。

だけど、そう易々と受け入れられるものでもない。薬の副作用みたいなもので、週末の間は怒りと悲しさでいっぱいの重度な拒絶反応が出た。

 

そして月曜の今、ようやく上記のような考えに落ち着いてきた。

「あの人は、私のことが嫌いで嫌なことを言っているのだろう」という拒絶から、「あの人はよくぞはっきりと、一生懸命、私が嫌がることを貫き主張したのだな」という気持ちになってきた。

ある意味、「過去一度も関わることのなかった、勇敢なる身近な年長者」かもしれない。

 

助言というのはとても難しい。

助言は常に相手に歓迎されるものではない。

そもそも助言が必要な状況であるわけだから、相手が進もうと思っている方向性とは逆のことをいう筈である。相手は反発したり落胆するケースが多いと思う。反発を押し切ってもなお、相手を制するということはとてもエネルギーを要する。

助言を受け入れてもらいやすくする話術、テクニックもさることながら、慎重に言葉を選び、相手の反応によっては根気よく相手の心に寄り添い続けたり、時に突き放したり(パフォーマンスとしての突き放しであり、心から突き放しているわけではない)、全ての助言はただ言葉を発すれば済む話ではない。

ただ助言という言葉を発したいだけの人は、そこまで親身にはなってくれない。相手の拒絶の気配を少しでもキャッチしたら、耳障りの良い言葉で衝突を回避するだろう。

この世は人生指南のような一言の助言で溢れているけど、汎用性のある助言よりも、一人ひとりに向けたオリジナルの助言というのは、たった一言で済む話ではないのである。どのような関係の誰が発した言葉か、どのような過程を経ての言葉か、さまざまなシチュエーション、タイミングが融合しての「助言」という長めのセンテンスである筈だ。

 

前置きが長くなったけど、私はある方から助言を頂戴し、ひどく落ち込んでしまった。また、自分の考えを固め始めたところで、強い反対意見を言われたため大混乱。振り出しに戻った気分…

 

そんな折、Twitterでふと目にした「大丈夫」という言葉。

「あなたは大丈夫だよ」と背中をさすってくれるような優しい言葉は、砂漠の真ん中に放り投げられたかのような私にとって命の水だった。一体全体何がどう大丈夫なのかはわからないけど、傷つき疲れ果てた私を包み込み、もう一度立て直していく糧となる心強い一言だった。

 

それにしても、この「大丈夫」という言葉、上司などに深刻に業務相談したものの「あー、それ?だいじょぶだいじょぶ」などと軽薄に言われてイラッとした経験などはないだろうか。問題を確認もせず、よく考えもせず「大丈夫」と言われると、こっちは考えに考えて悩んでいるのに、とても軽率で無責任な感じがする。

「大丈夫」も前述の「助言」と同じで、シチュエーションや背景が違えば、同じ言葉でもありがたがられたり拒絶されたりする。助言が「大丈夫」だったりもするしね。

振り返って考えると、軽率に言われてムッとしたケースの方が数多く思い出される。

 

「大丈夫」って、何が大丈夫なんでしょう?

 

今回私が安らぎを感じた「大丈夫」は、その時は何が良かったのかわからなくて、無条件に安心した。そして、後になって気付いた。

私がある人からの助言に傷つき、それでもそのことについてもう一度考えを構築させていったこと。多分、それこそが「大丈夫」ってことなんだろうと思った。

 

「大丈夫、あなたは自分で答えを出せる」

 

「大丈夫」は、物事が万事解決します、という予言ではない。解決するのはあくまで本人。悩める本人が自分の力で考えて、もう一度立ち上がっていけることを示唆する。自分自身で納得いく答えにあなたはちゃんと辿り着けますよ、という予言。

 

イラッとくる「大丈夫」は多分、相談者の「悩みまくる苦しさ」をケアできていないからイラッとくるのである。「相談して損した」という気にさせられる。

「助言」に関しても同じで、頭ごなしに否定されると、相談者が導き出した答えの志向プロセスを全無視しているように聞こえる。

 

助言者にも言い分はあるだろう。自分のことでもないのに話を聞いてやっている。全く自分と関係のない事象であるから、本当はどう転んだところで関係ない。本人は悩んでいるけど、最終的に本人が幸せであるなら何だっていい。などなど、基本的に「どうでもいい」「好きにすれば」なことが大半であると思う。

 

結局は自分でしか答えは出せない。

 

大丈夫、答えはちゃんと自分の中から出てくるから。

 

 

保証会社って一体・・・

こんにちは。生きてます。

 

現在、絶賛家探し中です。

現在借りている住まいに大きな不満はないのですが、猫を飼いたい、飼うかもしれない、自宅で仕事ができる環境を整えたいなどの希望があり、3月頃から賃貸物件を物色しています。

 

7〜8年ぶりの家探しなのですが、以前の賃貸事情から大きく変わったことが一つ。

 

それは、ほとんどの物件が契約時に保証会社と契約しなければいけないということ。

 

現在の住まいを探していたときも、「保証会社どうします?」と聞かれました。

不動産の担当者が「勿体無いから保証人になる方がいるなら、ちょっと手間でもそっちの方がいいですよ」と言うので、兄に保証人になってもらって契約しました。

当時は保証人を立てるという選択肢も残されていたということですね。

それが現在は、ほぼない、とのこと。

 

不動産屋には「保証人不要」なんてのぼり旗がはためき、消費者にとってまるで大きなメリットであるかのように久しく謳われてきましたが、実態としては保証人なしで貸してくれる訳ではなく、謎の第三者の保証会社が保証人となるってこと。

なーんか、腑に落ちない。

 

保証会社によっても支払いの方法は色々あるようだけど、

  • 保証会社との契約の初期費用
  • 年1回の更新料
  • 毎月の保証料
  • 振込手数料まで取られる始末

 

保証人の代わりになる「保証会社」なのに、保証会社によっては、保証会社から保証人を求められるらしい。

これ、ものすごく変だと思うんですけど…

保証会社って取立て屋って認識で合ってます???

 

しかも、家賃延滞時の取り立ての構図で考えたら、

保証会社にお金を支払うべきは大家さんの方では???

 

それが今の賃貸のルールなのだと言ってしまえばそれまでですが、

礼金なども一種の慣習とか文化みたいなとこありますし…)

それでもなんだか腑に落ちないのは私だけ?

消費者庁はよ動いて。

 

携帯電話会社の顧客囲い込みや解約時の罰則金、高すぎる料金も

最近になってようやく解消されてきましたが、

この不動産業界の風習も改善の必要があるのではないでしょうか。

 

借主にとっても貸主にとっても平等にメリットがあるようにできないものですかね。

 

だって、保証会社なんて困った時に助けてくれるわけでもなく、

日頃なーんにもしないんだし、

保証人からしたって保証会社からいきなり取立てがやって来て脅されるよりは

家賃の肩代わりの方がマシでしょ。

 

不動産業界の風習は、ほんとよくわからないものが多いですね。

 

 

 

 

 

 

ライターとして致命的だと思っていること

私は書くことを職業としているのに、自分発信で特別書きたいことがないのはなかなか致命的だなぁと思う今日この頃です。

 

“他者の思いを引き出し、文字に起こす“

は得意なのですが、

これだけだと立ち行かないことがままあるのです。

今、それに直面しています。

 

なんでもいいのでテーマを決めて書いていこうと試みては挫折すること数回。

 

なぜ挫折するかというと、どうにも話題がズレがちなのです。

 

例えば、Twitterで何らかのテーマ性を持たせたアカウントを作って発言していても、自分という個人の生活はそのテーマだけで成り立っているわけではないので、使い慣れてくると、テーマから逸れたことをそこで呟き始めてしまうのです。

1テーマに絞っていたはずのところに、自分の暮らしのあれこれが侵食してきてしまうのですね。

 

有名人(=その人のタレント性、パーソナリティが確立された状態)であれば、それでもいいのかも知れませんが、往々にして「見たくない情報」を見せられ続ければ、人はその人から興味を失います。

ましてやコンテンツありきの(=テーマ性が絞られており、そのテーマにおける情報が発信される)アカウントであれば尚のことで、関係ないことを語られ始めれば、フォローする意味がなくなってきます。

 

私はそこの線引きが苦手で、役に徹することができず、パーソナルになりがちなんですよね。

 

曲がりなりにも“プロモーションの仕事”とかしてるにも関わらず!

 

実は今、新たな事業を起こそうと考えています。

事業というほど立派なものではありませんが、いわゆる独立というやつです。

そのために重要な課題。

 

このブログでは、カテゴリーを見ても、自分のパーソナルな部分が雑多に出ちゃっているので、このまま乱文・ノーテーマのままですが(笑)

 

 

お久しぶりの近況報告

随分とこのブログを放置していました。

最後に書いた、ひとつ前のブログを読むと、まぁ重たいですね。

重苦しさがひしひしと伝わってくる。

 

重たいから悪い、改善したいとはあまり思わなくて、

心の平原に散在している落とし穴みたいなものかと思ってる。

この地の特徴。ありのまま受け入れるしかないもの。

 

あれから、これといって変化はないけど、

新たな住処を求めてみたり、

偶然見かけた求人広告に応募してみたりしている。

 

これからどうなるだろう。

いずれにせよ、遅くとも半年以内には仕事を変えるだろう。

 

一人で生きる覚悟なんて何もないけど、

ただ一人進めてきた歩を再び進めていくくらいしか、することがない。

 

多分、それでいいのだ。

 

10年、低温の日々

あれから10年も経つ。

あの日浜松のオフィスにいた私は、グワングワンとした大きく鈍い揺れを感じた。オフィス内に動揺が走った。どうも東の方で大きな地震があったようだと情報が錯綜し、その後はずっとパソコンのディスプレイにかじりつくこととなった。それまで見たことのない光景が広がっていた。街が呑み込まれていく様子など、映画の中でCGでしか見たことがなかった。

 

私の住む場所は何の被害もなく、命の危険も生活が一変するようなこともなかったけれど、大きく暗い霞のようなものに心が囚われたことは今もよく覚えている。

 

恥ずかしながら私は、社会の為にも身近な人の為にも、遠からず縁のある人の為にも、何もすることができなかった。

自分には何も起きていないし何も変わっていないのに、気持ちだけ落ち着かなかった。

この10年東北には行っていない。情けなさを隠したかったからだろうか。私は日々を淡々と過ごした。いや、漫然と過ごしたと言う方がしっくりくる。

文字通り誰の為にも生きていなかった。その中には自分自身も含まれる。

自分の為にさえ生きてこなかったのだ。

 

少なくともこの10年間、あがいてもがいて生きてきた。自分自身の幸せを求めていた。

だけど、沼の中で無意味なバタ足をしていただけで、少しも前に進まなかった。私の成果は沼に沈まなかったということだけ。

 

幸いにも大病もせず(一時期難病疑いもあったが、大事には至らず)、仕事も人並みにはできて人並みの給料はもらっている。自立して一人の力で暮らしている。

 

しかし、ライフステージが全く変わらないということもそれなりに苦しい。

 

本当に何も10年前と変わっていない。

住む場所も職場も変わったけど、基本的なことは全く同じ。

 

変わりたくていろんなことをしたけど、何度も何度も振り出しに戻され、現在に至る。今はもう疲れてしまって努力はやめた。

『努力は報われる』なんて聞いたことあるけど、努力したから当然の結果なのではなく、努力が実ること自体ラッキーだと私なんかは思ってしまう。

 

結婚もできなかった。子どもも産めなかった。誰のことも愛さなかった。

何一つ生み出せなかった。

それが私の10年。

 

苦しんだ人が大勢居る中で、本当に情けないことなんだけど、何もなかったことはラッキーだと思わなきゃいけないんだろうな。

 

10年を振り返ると悲しくなるけど、細々と、本当に細々と、経済活動の歯車の一員でいる。

 

10年健康だった。

努力はいつも報われるわけじゃないのだと知った。

私はいつも低温の沼にいた。

感情は大きく揺らがず、身を挺することもなく、ぬらぬらと生きていた。

感情を揺さぶられること、それに身を捧げられることは尊くて眩しい。

それを知ったこと。それも学びだと思うことにしよう。

 

 

「一口ちょうだい」の人

ある界隈の知人で、少し苦手な人がいた。

その人はいろんな人に積極的に絡んでいくフレンドリーな人。

私は特に密な絡みはないけど、機会があれば話くらいはする知人。

 

その界隈には、私の仲良しで大事な人がいて、その人とその人も知り合い。

わかりにくいので仮名を付けます。

私の苦手な人を「I氏」(男性)

私の大事な人を「Qちゃん」(男性)

とします。ネーミングに深い意味はない。

 

Qちゃんはその界隈ではちょっと有名人で、将来を期待されている人。

Qちゃんのそれにいち早く目を付け、仲良しアピールをするかのようなI氏。

Qちゃんに絡める隙を見つけてはQちゃんを誘って何かを実行。

I氏は「これ、一緒に行こうよ」とSNSに堂々と書く。公に書くからQちゃんは断らない。Qちゃんにとっては別にどっちでもいいみたい。

 

少しでもQちゃんと過ごしたい私は嫉妬する。I氏の行動が許せない。

私はI氏が嫌いというより、Qちゃんの時間を奪っていくことが嫌いだった。

Qちゃんの私への割り当て時間が減ってしまう。

 

と、ここまで書いて、

子ども同士の狭い人間関係の小さないざこざみたいだな〜なんて思っている。

ちょっと情けなくて恥ずかしい嫉妬。

だからこそ、Qちゃんにも「I氏ってすぐQちゃんを誘うよね」などとチラリと言うくらいで、大っぴらに嫌悪感を示したりはしていない。

共通の知人だから、Qちゃんとの話題にもよく上がるしね。

 

今日も、Qちゃんのある行動に、I氏が便乗してくっついていったようだった。

それにはQちゃんの他にも共通の知人が数名参加しているが、I氏は関係者ですらない。

だから、今日のQちゃんからの「なぜかI氏もいる」という報告に私はイライラ。

ただ便乗しただけでなく、意見なども述べ、関係者枠に強引に入っていったように見えた。

Qちゃんは気にもしていないようだけど。

 

それで気付いた。

私、I氏のことくっきりはっきり明確に嫌いだと。

何が嫌いって、「一口ちょうだい」とおねだりして一口もらって満足したら、また隣の席で「一口ちょうだい」とおねだりしているようなところ。

 

カフェなどで友人同士別々のものを注文して、一口ずつ交換することがある。

私はこの行為は嫌ではない。よく知らない人にされたらドキッとするけど。

これはギブアンドテイク。

 

I氏のそれは、一方的にもらうだけ。

 

私は三人兄弟の末っ子のため、「一口ちょうだい」をして育ってきた人間である。

末っ子に言われればつい与えてしまう。あげたくなくても親をはじめ周囲からそれを促され、あげるしかない状況に立たされる。子どもの兄達だって、全部一人で食べたかっただろう。それを妹の私に甘えられば必ず一口取られてしまう。サイアク半分。三人兄弟だから3分の2消えることも。

兄達には申し訳ないことをした。私も大人になり、その行為が甘えでしかないことをよくよく理解した。

 

私は末っ子だからこそ、もう「一口ちょうだい」はしない。

「一口ちょうだい」を断る大人はほぼいないことを知っているから。

私も相応の何かをきちんと提供できる状況にあれば「交換っこ」はするかもしれない。

でも「一口ちょうだい」はダメ。絶対にダメだ。

 

I氏は所構わず「一口ちょうだい」をする人である。

やはり周りの人は、一口くらいあげてしまうし、甘えられて一口提供したことを気にも留めていない。

おそらく私も「一口ちょうだい」されたら、あげざるを得ないのである。

一口あげないことは、とてもケチに見えてしまうからである。

 

たった一口。

されど一口。

 

私は「一口ちょうだい」には慎重です。