日々の雑文

アラフォー独身OLが生き方に惑ってるブログです。

父と宇部興産道路と私

先日、両親のお墓参りをした。
お墓までは自宅から約750キロ離れている。父の実家近くの雑木林の中にある。軽く山を分け入らなければいけない。正直、めんどくさい。

お墓参りには数年に一回、私一人で車で行く。決めてるわけじゃないけど、父の他界後それ以外の方法で行ったことは多分ない。20代の頃は休憩2回、8時間という速さで行ってたけど、近年は仮眠しないとムリ。遠い。

なぜ車で行くのかと多くの人に問われるのが、これまためんどくさい。理由なんかない。両親がいた頃から車で行くのが通例だったから。ただそれだけ。

実は今回はお墓は中継地点に過ぎず、目的地はその先さらに350キロほど離れた場所にあったため、超速でお墓参りして先を急いだ。その旅のことは書くかわかんないけど、またいつか。

長い長いドライブは、過去の思い出をあれこれと呼び起こさせる。
その旅の途中に、私にとって現世と黄泉の国の境目みたいな場所が存在する。
それは、宇部興産専用道路と中国自動車道が交差するポイントである。

「ほら、宇部興産道路だよ」
そこを通る度に、父は必ず言った。人感センサーでも埋め込まれているのかと思うくらい毎回。子供にとっては一体何がすごいのかわからないことを父はよく言い伝えたものだったが、郷土の誇りであったのだろう。父がいなくてもセンサーを発動するほど私にも染み付いて、その凄さも今ではわかる。
あぁ、日本一長い私道、宇部興産道路だ。

父が唯一センサーを発動しなかった時がある。父との最後のロングドライブでのことだ。弱りつつある父を見て覚悟を決めた私は、一人でタイヤにチェーンを装着する練習をした。その年末は雪が降っていた。酸素ボンベを転がしながら5時間新幹線に押し込まれるくらいなら、車の方が気楽だった。私は父に最期の故郷を見せなければいけなかった。最期に祖母に会わせなければいけなかった。父はどっちでもいいと言ったけど、私は絶対にそうしなければいけないという使命感に燃えた。

行きはまだ元気だった父だが、帰りは少し疲れた様子だった。普段は私の運転に口うるさいのに、黙って助手席に座っていた。故郷の景色を目に焼き付けていたのかもしれない。雪が降り、道路が白んでいた。チェーンを着けたくない私は先を急いだ。

「ねえ、宇部興産だよ」
父は眠っていた。

その2ヶ月後に父は亡くなった。やはりあそこは、この世とあの世の境目だったのかもしれないと、17年経って思う。

運転しながら、母が亡くなってから34年であることに気づく。あぁ、今年は節目みたいな年だから呼ばれたのかもなぁと思った。ちゃんとお墓を掃除すれば良かったなとちょっと後悔した。

思えば、父と私の親子関係が始まったのは、母が亡くなった時からだった。それまでの父は、同じ家に住んでいてもほとんど顔を合わせることがなく、たまに家にいる時だけ気まぐれに私を可愛がったり怒ったりする、私のペースを乱してくる近所のおじさんみたいな人だった。母の死を境に父しか頼る人がいなくなった子供の私は、父とどう接するべきなのか戸惑ったものである。17年間、私にとって父は、厳格な父であり、大らかな母のようでもあり、バカばっかりする弟のようでもあり、全然構ってくれないのに急に電話をかけてくる恋人のようでもあり、好きなことや感動したことを共有できる友人の一人でもあった。
父と過ごした17年は怒られたり喧嘩することもあったけど総じて楽しく、父がいなかった17年は、とんでもない出来事も多々ありながら最高の友に報告し意見を乞うことができないのが、だいぶつまらなかったように思う。

しかし、父がいないことをそこまで悲しく思わないのは、長期出張で不在がちだったことと、父と過ごした時間が濃すぎてお腹いっぱいだからだと思う。
それよりも母のいなかった34年、こんなにも長い間ずっと人を恋しく思えることに気が遠くなりそうだ。そのことを今、父に話してみたい。
いや、それ以外にもっと父に話したいことがたくさんある。もっと楽しい話がしたい。父がいつも、そうしてくれたように。


写真は、宇部興産道路から450キロ離れた場所に生息する野生の馬と、その中間の高千穂峡辺りの伝統芸能の神楽。本文とはあんまり関係ないけど。

 
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