過ぎ去った全てを輝かせる魔法の言葉
その晩、彼は上機嫌だった。
ビジネス上で、とても有意義で夢のある話ができる人と出会ったようで、
とても興奮していて、いつもより饒舌だった。
彼と私は、この先永遠に交わらない軌道の上にいる。
ほんの一瞬交わったから、こうしてお互いを認め合い言葉を交わしているけど、
それぞれの行く先は全く異なる方向にある。行き着く先はわからないけど、それだけは明らかだ。
二つの軌道は離れつつある。
今はかろうじてまだ手の届く範囲にいる。
キラキラと希望に燃えている彼は、去りゆく星なのだ。
私は淋しさと愛おしい気持ちを抑えながら、言葉をひとつずつ丁寧になぞった。
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いつしか、話題は私の出身大学の話に。
共通の知り合いが私と同じ大学を出ていることを、彼は偶然知ったそうで、
彼は「あの人、頭いいんですね」と言った。
どういうわけか、彼は私のことを頭が良いと評価しており、
“同大学の出身者であれば同等の頭の良さであろう”という安易な理屈を発動させてきた。
学歴と頭の良さは別に比例しないんだって、時々言ってたのに。
暗に共通の知人のことを“頭が良さそうに見えない”と言っているようなものだ。
「あそこはなんの取り柄もないことの象徴みたいな大学だよ」
と、私は彼に教えた。
余談だが、
彼は、難関国立大学に受かったのに某私立大学に行き、
私は、仮面浪人の末に受かった大学に結局行かなかった。
それぞれ、若干の学歴ダウングレードをしている。
「東大京大じゃなきゃ、大学なんて行く意味ないですよ。
時間もお金もムダです」
と、彼は言った。
・・・どっちも行ってないから知らないけど、そうなのかもしれない。
「でも、楽しかったよ」
私は言った。
——本当は、そこまで大学生活を謳歌したとは言い難い。
就職氷河期真っ只中だった。でも、私は若かった。
どれだけふてくされていても、それだけで楽しかったのだと思う。
「じゃあ良かった」
彼は言った。
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私の亡き父は、事ある毎に私に聞いた。
友達とどこかに遊びに行ったり、
運動会とか文化祭とかの行事だったり、
日々の学校生活でさえ、
幼少期から成人後もなお、
変わり映えのしないことに対して、あえてその言葉を投入した。
「楽しかったか?」
一人親で私を少なからず案じていた父は、
私に問うたと言うより、そのように思考を強制したのだと思う。
「うん」
私は多少モヤモヤしながらも、力強い肯定はなくとも、
ふてくされ気味の日々を“楽しい”と言わざるを得なかった。
楽しければそれでいい。
“楽しい”は全てのマイナス要素を覆し包括する、柔軟にして不屈のポジティブシンキングである。
そして、“楽しい”は自分自身の内から出てくるものであるということも、
100%同意できないからこそ、気付くことができたのである。
父ともまた、永遠に交わらぬ軌道の上、私は一人取り残された。
何も、交わらない相手は彼一人だけではない。
誰もがそれぞれの軌道の上で果ての知れぬ漂流を続けているのだ。
この孤独な旅で何が起きようとも、
辿り着いたその先で「楽しかったよ」と言えれば、
もうそれだけで全てが輝くのである。
☆