日々の雑文

アラフォー独身OLが生き方に惑ってるブログです。

三浦春馬さんによせて —私たちが悲しい理由—

最近の若いタレントのことは知らない。ついでに言うと、流行ってるお笑い芸人のネタも知らない。私はテレビをほとんど観ない。

 

でも、三浦春馬は知ってる。熱狂的ファンではないけど、あの年代の俳優なら断トツで春馬推しだ。嫌味がなくて爽やかで。若い頃から落ち着いていて、何かを知り尽くしているような深みと安定感があった。浮ついた印象がないせいか寄り添ってくれる感じがして(すんごい妄想だが)、なんとなく同じ側にいる感じが好きだったんだと分析している。

いつも味方でいてくれるお兄ちゃんみたい。自分よりだいぶ年下だから変なんだけど、やんちゃで甘えん坊の弟って感じでもない。若いけど頼れる感じ。しかも、落ち着き払った偉そうな感じでもなく、しっかり同年代から若い世代へもアピールできるキャラクター。

ご多分に漏れず、私も三浦春馬の死に衝撃を受け、悲しんだ者の一人である。

 

連日、三浦春馬の死に関する様々な記事が溢れる。記事には皆のコメントが付く。ざっと見て、悪く書く者はほとんどいない。それほど品行方正に、正しく愛されていた人物なのだ。口にはせずとも、日本中が静かに悲しんでいる。

 

どうしてこんなにも皆等しく悲しいのか。順風満帆で将来有望に見えた青年の死。

・・・“順風満帆”も“将来有望”も、この世の皆で作った価値観だ。彼は皆の理想の一つであり、憧れの化身だ。彼は皆の注目を浴び、その一挙一動で周囲をうっとりと魅了し、時に多大な影響力も発揮しただろう。人は皆平等だとは言うけれど、そのような力はそう誰も持ち合わせない。様々な評によると、彼はその力を悪用するタイプの人物ではなかったみたいだ。そんなところが上述の“お兄ちゃん感”かもしれない。もちろん彼自身の努力の賜物であろう。それにしたって、彼はこの世界に愛された人物だ。

 

憶測に過ぎないけれど、嫌われる要素がない。特別好きではなかったとしても、彼に爽やかな微笑みを向けられたら、どんな人も悪い気はしないのである。

彼という存在はこの世の模範のカタチの一つなのに、この世から去ってしまった。その終わりが病気や事故などによるものではないことも、悲しみを増大させる要因である。寄り添ってくれたはずのお兄ちゃんが、自分を置いて突然遠くへ行ってしまった。

皆、彼が背を向けた世界に取り残されてしまったのである。

彼がたった一人で死の道を選び、別れを告げた世界に、私たちは今日も生きている。

そのことが私たちに深い悲しみをもたらすのではないだろうか。

 

数々の称賛は彼を救うことができなかった。大勢の喝采も彼をこの世に留まらせる理由にはならなかった。誰もが欲しがる名声は、さほどの充実をもたらすものではないのかもしれないという虚無がよぎる。

ほとんどの人にとって三浦春馬は偶像だったが、同じ世界のどこかに生きている実在の人間であることが、何かしらの支えでもあった。それが、ずっと偶像の側面しか見せられていなかったのに、一瞬だけ生々しい人間の姿をさらした。自死という生身。そして本物の偶像と化した。

 

少しだけ、「鶴の恩返し」あるいは「鶴女房」に似ている気がした。

正体を知られたために去って行く女。いや、鶴。あの物語の余韻、皆の胸に去来するのは、「何も去ってしまわなくても・・・」という思いではないだろうか。ちょっとした出来心が、取り返しの付かない事態を招き、あっという間の展開に男と読者は取り残される。

鶴が去らずにそのまま暮らしたとして、男はその後鶴女を追い出しただろうか?

実はそれはわからない。姿は女だし、対外的にも女だし、機も織ってくれるし、男にとって何ら不都合はない気もする。でも鶴という事実は、何らかのわだかまりを生むのである。それがわかっているから鶴は去ったのではないだろうか。(「絶対に見るな」とか実はトラップのような気もするけど・・・。)とはいえ、今ここでそれを追求するつもりはない。何にもなぞらえる必要はないのだが、三浦春馬の死は何らかの物語のようにも思えてしまうのだ。

 

 

 「あの時は、本当にキツかったですね・・・」

 重く言葉を絞り出し、沈黙する春馬。

 「・・・よく戻ってきてくれましたね。みんなあなたを待ってたのよ」

 徹子が言うと、唇を少し噛みしめた後、吹っ切るように照れ笑いする春馬。

 「・・・はい」

 

という数ヶ月後の「徹子の部屋」あたりを妄想してみる。悪ふざけの過ぎた壮大なドッキリでもいい。

彼はテレビの世界の人だから、私にとってはそういう感覚だったりもする。テレビがないから多分観ないけど、YouTubeを漁ったりはすると思う。

でも、それは絶対に起きないということを知り、バカげた妄想をしたことを後悔する。偶像と生身をごっちゃにした自分を恥じる。彼は人間だ。もう還ってこない。もう、全てを爽やかに浄化させるあの笑顔は、 誰にも向けられることがない。

 

皆がそれぞれどう思っているかわからない。「どうして?」と言葉は浮かぶものの、私は彼の死の真相についてはそこまで知りたいと思っていない。誰が何を言っても、本人にしかわかりようがない。でも皆納得したい。その気持ちもわかるから、詮索する記事が飛び交うのもわかる。

私はただただ、この世界に戻ってきてほしい。そして、万が一の復活後も継続してこの世界に愛される彼を、視聴者として見続けたいだけだ。

傍にいたら話を聞いてあげられるかもしれない。でもきっと、「あぁ!カッコいい!」ってうっとり見惚れて終わりな気がする。きっと彼を救えない。もしも結末を知るタイムトラベラーであれば、『君の名は』よろしく絶対に救ってあげたいと思うけど。

 

現実は、何も起きない。ただ三浦春馬のいない世界が続くだけだ。そして彼の不在は世界に何の不都合ももたらさない。あんなにも彼に二物も三物も与えて優遇したっていうのに。世界側も薄情なものだ。

愛情を注がれて育ったはずなのに、突然蒸発してしまった家族の一人みたいなのだ。愛情を注がれていなかったなどの事実があれば少しでも納得するのかもしれない。この世の中には、そういう理由を付けてはいちいち納得しないと気が済まない輩もいる。私はそんな詮索したくない。なぜなら、愛情を注がれて一緒にこの世界に生きてたと見えていたから。もちろん近くにいたわけではない。真実は知らない。でも、一緒にこの世を生きる仲間のようだったのだと思う。一方的ではあるけど。

悲しい理由は、そんなところではないだろうか。

 

消えたのが誰であれ、失われた悲しみは、なかなか埋めることができない。去って行った人を案じてもどうすることもできない。もうこの世のものではないのだから。残された人間にできることはただ一つ。その人を忘れずに生きることだ。生きることを存分に謳歌できたら尚良い。

いろんな人が生きた足跡を、その息吹をなぞり、今日も私は生きている。

 

 

春馬くん、なんて素敵な名前。

苦しみや悲しみに脚を囚われることなどなく、どこまでも颯爽と駆けていけばいい。

 

 

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という文章を少し前に書いた。

ざっと読み返してみて、時の流れの残酷さや、人の忘却能力の高さを感じた。

 

生きている人間は毎日生きてその記憶を更新する。

止まったものは置き去りに。

 

改めて、生きていてほしかったなと思う次第。