今掴めなければ、二度と掴めない・・・のかな?
「あ、このことを文章に書き起こそう」
と思い、でもその時は書く時間も環境もない。
頭の中で反芻しながら、推敲しながら、後で一気にババッと書けちゃうこともあるけど、大半の思いつきは煙のように消えてしまう。
「あっ」と閃いた時、すぐに掴んでおかなければ、どんなに素敵なヒラメキも、靄がかかって見えなくなる。
そんな人生の教訓を書いた小説や何らかの言葉は、この世に乱立しているし、様々なところから私も重々承知しているのだけど、結局つかみ取れなかったものが多々ある。
その人生訓を描いたものとして印象に残っている小説が、
原田宗典の『十九、二十歳』(タイトル表記合ってるかな・・・)。
ある写真家の元でアルバイトをしていた大学生の主人公。
写真家が夕焼けを撮るのに同行した際、そんなようなことを写真家から教えられる。
「今だと思った瞬間には、もうそこにはなくなっている」
たしか、そんなようなこと。
私の記憶では、“今”ではもう遅いくらいのこと言ってたと思う。
その直前を見極めて狙わないと掴めない、っていうくらい。
ホント、その通りだなって思う。
私はその小説が好きってわけでもないのだけどとても印象に残っていて、映像として見たわけでもないのに、心象風景としてその夕焼けのシーンを思い返すことができる。不思議なものだ。
しかし、その心象風景からも年月を重ね、思うこともある。
「掴みたいという衝動に駆られて掴み取ったものは、本当に大事なものなのだろうか」
と。
小さなものから大きなものまで、満足の記憶もあるし、今でも掴めて良かったなと思うこともある。
だけど案外、掴み取ることに満足だけして、どうしてあんなに欲しいと思ったのだろうとか冷めた気持ちで振り返ってしまうこともある。
そして、上述の小説のワンシーンのように、期待も何もなくふと出会ったものが、いつまでも心に残っていることもある。
そう考えると、「掴まなきゃ」と躍起になるばかりが必ずしも人生の満足ってわけでもない。
肩の力を抜き、通り過ぎるものを眺めることも、時に必要なのだろう。
ただ、力を抜きすぎると、何も掴めない。
本当に何一つとして、手に残るものはない。
自分を律し、掴み取るための努力を重ねていかなければ、ふと通り過ぎるものに気付く感性さえ失われるようにも思う。
目的のものを掴めないかもしれない。
だけど、嘆くなかれ。