日々の雑文

アラフォー独身OLが生き方に惑ってるブログです。

ぜんぶ星のせいだ。

振り返れば、5月〜6月前後はあらゆる人間関係を破壊しまくった気がする。

 

GW辺りに第一波があり、5月はずっとくすぶっている感じで

6月中旬に着火。(比喩的な意味で)

 

え? いつの間に火、点いてた?

という感じの、出所の分からぬ謎の火。(比喩的な意味で)

残り火? 放火?

いずれにしても、無自覚に火を点けて回っていたように思う。

(しつこいですが、比喩的な意味で)

 

相手の考えていることもよくわからないし、

自分が伝えたいこともうまく伝わらない。

とにかく平行線。我慢ならずに口論に発展すること複数回。 

 

 

 「最近コミュニケーションがうまくいかないんですよね〜」

などと、客足の戻らぬ馴染みのバーで、一人くだを巻いていたら、

 

「あ、それ、金星逆行のせいですね」

と、女店主にサラッと言われた。

 

金星逆行 

な、なんすか? それ・・・

 

ググっていただくといろいろ出てきますが、ざっくり説明しますと、

  • 約1年半ごとに40日間ほど続く
  • 人間関係やコミュニケーションにおいてすれ違いが起こりやすくなる
  • 今回は、2020年5月13日〜6月25日
  • 恋愛面においては、好きの感情が過剰になることでトラブルに発展しやすい

とのこと。

過去を振り返りやすくなるなどもあるらしく、懐かしい人との再会や復縁なんかも起きやすい時期なのだそうです。

 

なんか、当たってる。。。

発火ポイントは誰彼構わずではなくて、男女関係においてでしたし・・・。

トラブルの要因はあるにはあるけど、日頃はある程度持ち合わせているはずの寛容さや余裕が持てなかったり、気持ちもなにやら不安定。

 

 

「でもね、気をつけて。水星も逆行しますから」

と、女店主が続ける。

 

水星逆行

こちらは、金星逆行よりはメジャーかもしれない。

  • 一年間に3回くらい、3週間ほど続く
  • 交通機関の乱れ、連絡の行き違い、勘違い・すれ違いなど起きやすい
  • 株式相場など、あらゆるマーケットで急激な変動が起きやすい
  • 今回は、2020年6月18日〜7月12日

投資をされている方は、水星逆行期間はお休みする方もいるらしい。

 

今期、金星と水星の影響期間合わせて2ヶ月。

長い。。。

 

毎度毎度そんなこと気にして生活はしていないのですが、あまりにもコミュニケーショントラブルが多発したため、これら天体の影響を受けたとしか思えない。というか、そう思いたい。

 

それから、確かにこの期間は懐かしい人から連絡が来るなどもちらほらあったんですよね。とにかく今回の逆行は強力だったように思うのは、私だけでしょうか。私個人では特に金星の影響がひどかったような。

 

もしかして、この大雨も水星逆行のせい・・・!?

 

ここ2ヶ月間程、妙に人とコミュニケーションがうまくいかず衝突したり、情緒不安定だったりした方がいらっしゃったら、もしかしたらそれは星のせいかも。。。

 

今掴めなければ、二度と掴めない・・・のかな?

「あ、このことを文章に書き起こそう」

と思い、でもその時は書く時間も環境もない。

頭の中で反芻しながら、推敲しながら、後で一気にババッと書けちゃうこともあるけど、大半の思いつきは煙のように消えてしまう。

 

「あっ」と閃いた時、すぐに掴んでおかなければ、どんなに素敵なヒラメキも、靄がかかって見えなくなる。

 

そんな人生の教訓を書いた小説や何らかの言葉は、この世に乱立しているし、様々なところから私も重々承知しているのだけど、結局つかみ取れなかったものが多々ある。

 

その人生訓を描いたものとして印象に残っている小説が、

原田宗典の『十九、二十歳』(タイトル表記合ってるかな・・・)。

 

ある写真家の元でアルバイトをしていた大学生の主人公。

写真家が夕焼けを撮るのに同行した際、そんなようなことを写真家から教えられる。

「今だと思った瞬間には、もうそこにはなくなっている」

たしか、そんなようなこと。

 

私の記憶では、“今”ではもう遅いくらいのこと言ってたと思う。

その直前を見極めて狙わないと掴めない、っていうくらい。

ホント、その通りだなって思う。

 

私はその小説が好きってわけでもないのだけどとても印象に残っていて、映像として見たわけでもないのに、心象風景としてその夕焼けのシーンを思い返すことができる。不思議なものだ。

 

しかし、その心象風景からも年月を重ね、思うこともある。

「掴みたいという衝動に駆られて掴み取ったものは、本当に大事なものなのだろうか」

と。

 

小さなものから大きなものまで、満足の記憶もあるし、今でも掴めて良かったなと思うこともある。

だけど案外、掴み取ることに満足だけして、どうしてあんなに欲しいと思ったのだろうとか冷めた気持ちで振り返ってしまうこともある。

 

そして、上述の小説のワンシーンのように、期待も何もなくふと出会ったものが、いつまでも心に残っていることもある。

 

そう考えると、「掴まなきゃ」と躍起になるばかりが必ずしも人生の満足ってわけでもない。

肩の力を抜き、通り過ぎるものを眺めることも、時に必要なのだろう。

 

ただ、力を抜きすぎると、何も掴めない。

本当に何一つとして、手に残るものはない。

 

自分を律し、掴み取るための努力を重ねていかなければ、ふと通り過ぎるものに気付く感性さえ失われるようにも思う。

 

目的のものを掴めないかもしれない。

だけど、嘆くなかれ。

 

感情はあらわにした方が良いの?

実にくだらないことに、失恋した。

くだらない理由はいろいろあるけど、少なくとも、失った恋を偲んでおいおいと泣く状況ではない。

 

相手はずっと私に「責められていた」のだと主張する。

私はそれについて、「責められたと思われるのはわからないでもないけど、責めたわけではない」という認識である。

責められたと感じるのは主観だし、責めました・責めてませんなどの議論を重ねたところで何の意味もなさないのだが。

 

「女は主観で責める。我慢しない」

そのように相手の男性は声高に主張した。(実際は声ではなく文字のやりとりだが)

 

そこから不毛な議論を重ね、また新たな主張のような教訓のようなものが浮上する。

「言葉を駆使して責められるのなら、『死ね』と言われた方がマシ」

 

その真意は、責められているということが即時わかるからであるとのこと。

私の責め方はわかりにくい上、辛辣なのだそうだ。

 

そこで私はひどく傷ついた。

私は、感情を表に出すのが非常に下手な人間である。

加えて、「女は感情的である」という批判を大いにされて育った。

私は、私以外全員男という環境で育った。

ゆえに女性が家庭内でどのように感情を表現する生き物なのか、あまり見ずに育った。たまに女性ばかりで席を共にする時は、自由奔放な感情表現に圧倒され、私はかなり無口になる。そんなわけで感情的にならないようにコントロールしてしまうのが平常運転である。

どうもそれが余計に言葉の辛辣さを増長し、言われた相手は傷つくのだという。

 

・女は主観で責め立ててくるのでウンザリ

・感情的に責めてくれた方がマシ

 

この二つ、相反するようではあるが、よくよく考えると「主観」と「感情」は別物なので、両者は同時に成立するのかもしれない。しかし、私からするとこの二つの両立はちょっと混乱する。

 

私なりの解釈では、それは責められたくないとも言うより、ジャッジされたくないということなのだろうなと思う。

「あなたはズルい」とか「あなたは私をバカにしてる」とか、何らかの説明を付与されたくないのであろう。

 

おそらく、「ムカつく!」とプンプンするのが正しいのだろうな。上記の両立は。

そして、ムカつく理由はあまり詳しく述べてはならない。

 

要するに、世の男が主張する「女は感情的である」は、

感情的であることで困っている、手を焼いている、引く、やめてほしいという意味ではない。

男にとって女が感情的であった方がラクだし、都合がいいのである。むしろ感情だけでいいのである。理論的な会話とかされたくないのである。

負の感情より良い方の例で考えた方が良いかもしれない。

たのしー!」「おいしー!」「うれしー!」

この感情が素直に出てる方が単純に場は和む。それを提供した側も嬉しくなる。

別に具体性なんて要らない。感情のままはわかりやすいし気楽。

「怒ったぞ!プンプン」と言った方がわかりやすいんだろうね。(くだらな・・・と思うその心こそが男性には怖いのだろうな・・・)

 

しかし、私にはどうもそれがうまくできない。

幼少期よりそれを封印して生きてきたせいか、今更わかりやすい感情表現ができないのである。(但し、よく顔に出てはいるらしい。)

 

相手に上記2点を言われ、

「今更なぁ・・・」と、心底がっかりした。

 

いまだにこんな所でつまづく私。

感情的にならないように、「これだから女は・・・」と批判されないよう気をつけて生きてきたというのに、今更、解釈が間違っていたことに気付かされた男女の掟。

今更、感情を素直に表現するなんてできない。

私は今回、相手の多忙な状況を見て、ワーワー文句を言わないように気を使っていたくらいである。たまにその限界がきて、連絡がほしい等を訴えることはあった。多忙な割に○○を□ったり、△△を※※※にいったりしているところを見ると、怒りに震えるしかなかった。それでさえも、私は概ね我慢した。

(私が誰かわかっている方には相手の方の身バレ可能性が高いので行動内容を伏せることにしましたw) 

 

もう、私に恋愛はムリ。況や結婚をば。

そう頭によぎった。

 

と同時に、なぜだか急にこのフレーズが思い浮かんだ。

 

 本当はあなたの目の前で思い切って

 泣いてみたり 笑ってみたり 怒ってみたりさせてほしかった

 

20年くらい前に一世を風靡した鈴木亜美さんのデビュー曲『love the island』である。

今更ながら、ものすごい共感。

私の恋愛及びコミュニケーション能力が幼稚なのか、小室哲哉がすごいのかはわからない。

わからないけど、私が今回思うことはまさにそう。

 

 

https://youtu.be/Np3mLFJMuoU

youtu.be

 

アミーゴ、かわいかったなぁ。

 

 

スピッツ『8823』の歌詞を読み解く –君を幸せにはしない男−

現在、スピッツの『8823』をギターで練習しています。

8823で「ハヤブサ」と読みます。

 

このライブ動画が好きなので勝手に貼らせていただきます。。。

 

www.youtube.com

 

8823は私がスピッツの中で一番好きな曲です。

気持ち良い疾走感と、その高揚する気分にピタッとはまってドキッとさせられる歌詞が好き。

 

 さよならできるか 隣近所の心

 

とか

 

 あの塀の向こう側何もないと聞かされ

 それでも感じる赤い炎の誘惑

 

など、「抑圧された日常」や「不自由な現在」を想起させ、そういったものから抜け出そうと画策し、具体的な根拠はないけれど好転するであろう希望に燃えている様子を思い起こさせます。

そこからサビへの盛り上がりは、走り出した(ハヤブサだから飛び立った?)イメージができ、逸る気持ちや勢いを表していると思います。

 

この歌で最も印象的なフレーズはこの二つかと思います。

 

 君を自由にできるのは宇宙でただ一人だけ

 君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ

 

「自由」と言ってる時点では、まあよくあるフレーズで「自由にできるって言葉のチョイス、ロマンチックだな〜」などと何の疑問もなく受け入れられるけど、2番のサビで「不幸」と軽快に歌われ、「えぇっ?今なんつった?」と反応し、二度見ならぬ二度聴きしてしまうほどの衝撃がある。

 

歌全体のストーリーから推測すると、この「ただ一人」というのは、抑圧された世界から抜け出すパートナーってことだと思うんです。一人称が登場しないところが、この「ただ一人」が誰なのかを惑わす要因だと思うのですが、素直に考えれば「君=彼女」で、その対になる「僕=彼氏」ってことかな〜と思うのです。

 

この歌を初めて聴いた時は大学生の頃だったのですが、社会のしがらみから抜け出すカップルみたいなイメージで捉えていました。センチメンタルでモラトリアムな心にドンピシャでハマり、自由を求めて一時的にワッとはしゃいでみたものの、結局は社会の一部にならざるを得ないよねという悲哀も秘めた「8823」という感想でした。

「LOVEと絶望の果て」とか、まさにそれを表していて、「やっぱり解放されて自由を得ても、おいそれと生きてはいけないよね〜」なんて思っておりました。

 

時は流れて2020年。

折に触れ結構聴いた曲ではあるものの、ギターを持ち、自ら発声して歌ってみると、なんだかまた違う意味に思えてきたのです。この8823の歌詞が。

 

 君を自由にして、不幸にもするこの男。

 君を幸せにすることはない……

 

という解釈に、大人になって変わってしまったのです。

自由にはする、不幸にもする。でも、幸せにはしない。

それって、不倫…? そんな気持ちで歌詞を読んでいくと、

 

 さよならできるか隣近所の心 思い出ひとかけ内ポケットに入れて

 (すっかり日常になってしまった家族の存在。別に嫌いではないんだけどさ)

 

 荒れ狂う波に揺られて 二人トロピコの街を目指せ

 (世間的には日陰者でも、理想的な自由な世界で理想の関係でいたい

  そんな街、実在するかはわかんないけど)

 

 ガンダーラじゃなくてもいいよ

 (まあ、完全な理想郷じゃなくていいです。ぶっちゃけ現実問題として)

 

 愚かなことだって風が言うけど

 (ええ、わかっちゃいるのよ、愚かだってことは)

 

 クズと呼ばれても笑う

 (ええ、クズですとも)

 

という具合に、妙にしっくりきてしまう。

実際不倫なのかはわからないけど、この二人は何らかの後ろめたさのある関係性なんだろうな、多分。彼女がいるのに違う女の子とか、友達の彼女とかさ。知らんけど。

そうなると、「ハヤブサ」とか「隼」ではなく『8823』という表記も暗号みたいで、「秘密の関係」の風情を醸してくる。

 

そして、ラストの一言がね、しみじみと悲哀に満ちているのです。

 

 今は振り向かず君と・・・

 

そう、わかってるんです。この人は。

この関係が世間に受け入れられるものではないこと、隣近所の心のようなありふれた幸せではないということを。

振り向いてしまったら、抑圧されつつもなんだかんだ安全で心地良いしがらみに舞い戻ってしまいそうな危うさがあることを。

この先どうなるかはわからない。でも今は君と二人、越えてはならない塀を乗り越えて、トロピコの街を目指したいのです。そのくらい勢いよく恋に落ちてるんです。

 

スピッツって、草野正宗さんの歌詞って、手に入れることのできないもの、消えていくはかないものが崩れ落ちていく瞬間をものすごく的確に切り取っていると思います。

私はスピッツの歌、歌詞が鋭く胸に突き刺さってしまって、その昔あんまり好きではなかったのです。もうなんか、痛すぎて。(カッコ悪いという意味のイタいではなくて)

でも、歌詞が本当に素晴らしいと思うので、スピッツについてはまた書きたいです。

 

あ、ギターの話をしていなかったけど、Aメロとサビの差をアコギでどう出すか研究中です。

 

ブログのタイトルを変えてしまった

いくつか記事を書いてみて、当初書こうと思っていたことから何となくズレてきたように思い、ブログのタイトルを変えました。

最初はもっと仕事よりにしたかったんだけど、実際書いてみると、仕事のことはあんまり筆が進まなくて。

 

タイトルに深い意味はなく・・・

「やわらか」って言葉を使いたかったんだけど、「やわらかブログ」さんは既に存在していたので、先頭に何かつけようと思いました。

「ほんわり」とか「ふわっと」とか考えたんだけど、そこまでやわやわなのもちょっとなぁと思って、一時期なにかと使われていて、使用法によっては若干ふざけてるように見えなくもない「ほめられ」を採用しました。

いつも、隙あらばふざけようとしてしまうタイプなもので。。

響き、耳ざわりの良さも選考理由。

それにしても、「ほめられ」とか「愛され」のワードが女性ファッション誌とかの表紙を飾り始めた頃、「あー、その感情むきだしにしちゃっていい時代が来たんだね〜、へえ〜」って思った気がする。「私を見て!私を愛して!」全開、奥ゆかしさゼロで聞いてるこっちも恥ずかしいけど、でもそこまで堂々とされると羨望の領域だわ、って思ったような。

・・・と、こうやって書いてたら、やっぱりこのタイトルも違う気がしてきた。 

 

それにしても、ブログタイトルを変えるってすごいことだなと思う。

仕組み的には気軽に変えられるんだろうけど、コンテンツ的には屋号を変えるってことだから完全別物。

例えば、雑誌の名称を変更するとかと同等のことだと思うんだけど・・・雑誌名変わったら、もはや違う媒体。

でも、そういう変幻自在のゆるさがいいんだろうなと思う。アカウント同じなら、まあ同じでしょ。

 

また何か違うと思ったり、もっと付けたい名称が思い浮かんだら変えるかもしれません。

 (既にちょっと思ってる)

 

【追記】

そして結局、まさかのさらに変えてしまった・・・!

「〜されたい」をむきだしにするのは、やっぱり自分のマインドとは合わなかった模様。

・・・褒められるのは嬉しいんですけどね。

 

 

輪廻が本当にあるかはあまり問題ではないのです

 

彼は言った。

「輪廻転生なんてありませんよ。死んだらそれで終わりです」

 

実に彼らしい発言。驚きはない。

「まあ、そうでしょうね」と言わんばかりの、生意気な表情しか私は浮かべられなかった。

 

輪廻があるかないか、それはわからない。

そして、あるのかないのかは全く問題ではない。

あってもなくても、現世の私に支障なし。

 

だけど、輪廻があると“思う”だけでちょっと、

ほんのちょっとだけ、心に余裕が生まれることもあるんだってこと。

心の中に隙間がないほど埋め尽くされた“何か”に苦しんでいる人にとって、

そのほんのちょっとの隙間が、息をするために必要だということを、

私は言いたかっただけなんだ。

 

死んだら何もない。無がひたすら続くだけだ。

うん、私もそう思ってるよ。

 

彼は、自分がここに有る間に、力一杯生きたいんだ。

死ぬまで全力で走り抜けたいんだ。

行けるところまで行きたいんだ。

山のてっぺんの遥か上の彼方まで。

できるだけ高い場所で世界を見たいんだ。

彼のその強さを、私は見てきた。

知ってるよ。「次がある」なんて、一瞬の隙も自分に与えたくないことを。

 

「いえ、僕は科学的にないと言ってるんです」

と、彼は言う。

私は、「話の通じない奴だな」って顔で彼を見る。

彼の髪をくしゃくしゃにして意地悪してやりたいと思ってしまう。

私も輪廻なんてどっちでもよくて、今この世で彼と生きていたい。

彼と一緒に世界を見たいんだ。

 

人との出会いは人生をキラキラと輝かせる。

不思議だ。相手もまた、ただの同じ人間のはずなのに、どうしてこんなにも心が弾むの。

どうしていつも、彼は私に希望を見せるの。

 

次、

もしも次があったら、

今度は私が一番にあなたに会いたいのに。

 

出会いのあとには別れがある。

大なり小なり、ひとときの静寂がやってくる。

嵐のあとの穏やかな快晴か、風向きが変わる前の夕凪か。

またうまく風に乗っていければいいのだけど、時に、空から蓋をされたみたいに空気が全く動かなくなる時がある。

自分の体の半分以上が、その人と共に消え去ってしまったかのように。

 

輪廻はその無風を乗り越えるための、一つの考え方だと思う。

また会える可能性。それは暗闇に差す一筋の光。

またいつか、その人に会った時のために、楽しい話題を見つけて生きる。

その人がいなくなった世界のその後の話を、してあげたいじゃないの。

 

輪廻は、再会するまでの希望。

残された時間にはまた、新しい出会いがあって別れがある。

私たちはいつも、それを繰り返している。

死が、私と世界を分かつまで。